前話:退職金の向こう側(年金ハック生活のはじまり)
1982年、B級ど真ん中の幸福
私の趣味としての“本格的なオーディオ歴”は、ちょうどCDが発売された1982年ごろから始まる。
当時のシステムは、いわゆるB級オーディオど真ん中。
・レコードプレイヤーはヤマハのGT-2000
・カートリッジはオーディオテクニカのAT-32
・スピーカーはJBLの4312
・アンプはLUXのL-510
聴いていた音楽は、JAZZのハード・バップ。
これでしばらく、何の不満もなくやってきた。
高級オーディオ視聴会で、目が止まったもの
ところが、ある日。
なんの気なしに行った「高級オーディオ視聴会」(名前からして少しいやらしい)で、いろんなブースを回ることになった。
その日の課題曲は、
Jennifer Warnes – Rock You Gently。
いろんなブースを回っているうちに、変な三角帽子をかぶった、ダースベイダーみたいな真っ黒いスピーカーに、なぜか目が止まった。
正直、見た目は好みじゃない。
むしろ「なんだこれ?」という感じ。
でも、そのブースに足を踏み入れた瞬間──
真ん中に、ボーカルがいた
真ん中に、ボーカルがいた。
くっきりと。
恐ろしいほど高解像度で。
まるで、そこに“人間が立っている”みたいに。
音が鳴っている、じゃない。
“存在している”。
その瞬間、私はやられた。
気づけば、ブースに置いてあったその音を出してるスピーカー、アンプ、CDプレイヤーのカタログを片っ端からカバンに入れていた。
「これは……まずいな」
今まで自分が「いい音」だと思っていたものは何だったのか。
解像度?
定位?
S/N比?
そんなスペック的な言葉が、急に色あせた。
音が前に飛んでくるのではない。
音場の奥行きがどうとかでもない。
ただ、そこに“人がいる”。
ボーカルが、中央に、輪郭をもって立っている。
息遣いがわかる。
口の開き方まで想像できる。
しかも、まったく無理をしていない。
大音量でもない。
派手でもない。
なのに、逃げられない。
気がつけば椅子に深く座り直し、
腕を組み、
無意識にうなずいている自分がいた。
長年SEをやってきた私は、理屈で説明できないものに対して、少し警戒する癖がある。
でも、この音は違った。
理屈ではなく、“現実感”だった。
家に帰って、世界が変わった
帰り道、頭の中で何度も再生される、あの声。
家に帰り、いつものシステム──
LuxのL-510、JBL 4312、YAMAHA GT-2000。
十分に愛してきた機材だ。
これで満足していたはずだった。
なのに。
針を落とした瞬間、
「あれ?」と思ってしまった。
悪くない。
むしろ、いい音だ。
でも、あの“存在感”がない。
あのスピーカーは、音を出していたのではなく、
空間を書き換えていたのだ。
退職金は、気がつけばすべて消えていた。
いや、正確に言えば、
“音”に変わっていた。
足りなかった。
だから、かき集めた。
いろんなものを解約して。
バカだと思う人もいるだろう。
計画性がないと笑う人もいるだろう。
でも、私は思う。
老後の人生設計より、
「本当に震えた瞬間」に賭けたっていいじゃないか、と。
──これが、あの頃の私の人生設計だ。
そして私は、あの“真っ黒い三角帽子”の正体を突き止めにいくことになる。
次話;真っ黒い三角帽子の正体(そして退職金が音に変わった)


コメント